石川県立輪島高校創立百周年記念サイト

旧職員からのメッセージ

左古 隆(第24代校長)
◆歴代校長メッセージ

母校の思い出

左古 隆

第24代校長

私は、生徒として3年、職員として12年の計15年間在籍した。

昭和42年4月に入学。古い木造校舎だったが、重厚で伝統を感じる正面玄関が印象に残っている。一方、自由で「自主自律」の雰囲気があった。1年次には、早朝散歩と称して同級生数人と自転車で近郊を走り回ったあと、教室に入り込んで自学自習の真似事をした。3年次の夏季休業中は何人かで勝手に教室を借り切って自分用の机・椅子を廊下に出し、窓を全開にして学習した。蒸し暑い風や校舎の匂いが懐かしい。2年次から3年次にかけては日本中で学生運動の嵐が吹きまくり、輪島高校もその影響を受けた。『五十年史』に“学園紛争”の一節があるが、私たちの学年だった。

昭和54年4月、社会科の教員として赴任した。野球部全盛期だった。夏の県選手権大会決勝輪島-星稜戦、2-4で惜敗した。この時の星稜があの箕島との大熱戦を繰り広げたチーム。「能登から初の甲子園」、それは「輪島」だと確信していた。その後も上位の常連校として「強豪」と称された。残念ながら近年は「古豪」になっている。今も懸る「めざせ甲子園」の看板が眩しい。

昭和60年前後は学力向上に力の入った時期でもあった。奥能登の伝統校として「自学自習」の名のもと鷹揚に構えていたが、受験競争の中で苦戦していた。進学支援の体制を整え、補習などの手当が始まった。もともと基礎力のある生徒たちだけに成果を上げていった。

平成14年4月、再赴任。少子化の影響下、高校再編が進められていた。地元中学校を訪問し、志願者確保に努めた。学校の特色を鮮明に打ち出そうとする高校間競争が激化し、職員の業務も増えていった。

平成22年4月、校長として赴任した。私は「地域の子どもは地域の学校へ」という思い一筋であった。そのためには多様な子どもたちに対応できる柔軟な指導体制が不可欠。奥能登の高校の存在意義がそこにあると考え、職員と力を合わせて頑張った。

母校には、百周年を迎えるこの機会に旧制中学校設立時の地域の思い、すなわち“初心”を思い起こしてほしい。そして、「文武両道」(個人または学校)をモットーとして学校活性化をさらに進めてほしい。

PAGE TOP